無題 投稿者:
高山 投稿日:2021/03/15(Mon) 10:31 No.489 |
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北畠氏の「狼煙(のろし)ネットワーク」と髭山 3月14日、35周年記念山行企画の最後となる髭山例会が行われ、参加者はじつに40名以上に上りました。中止が相次いだ企画の最後なので何か特別なことをしようと、頂上の「のろし場跡」に集合してもらい、拡声器を使い距離を取り、次の話をさせていただきました。 ―――――――――――――――――――――― ネット上のある資料によると、のろし台にまず燃え易い藁を下に置いて、その上に煙の発生源となる、杉の緑の生葉を厚く重ねを重ねます。炎を出さず煙のみを出す工夫です。ここからが面白いのですが、その上へ乾燥したオオカミの糞を置いて、下敷きの藁に火を付けたとのことです。なぜオオカミの糞なのか、ということですが、乾燥したオオカミの糞を一緒に燃やすと、合図の煙が肝心なところで、左右に広がることなく、真っ直ぐに立ち昇るところから、使われるようになったというのです。これがのろしを「狼煙」と表記する理由だそうです。ピンときませんが。 ここから掘坂山が見え、白米城も見えますね。髭山の山頂から白米城まで約10kmだそうです。しかしのろしの情報を識別するには10kmはやや遠すぎるとのことで、その間の一つの中継点が掘坂山だったそうです。右図が方角も含めた位置関係です。 実は髭山を含む「のろしネットワーク」を活用したのは北畠氏でした。北畠氏は南北朝時代から戦国時代まで250年ほど伊勢国司として権勢をふるい、その邸宅は美杉の多気(たげ)にある現在の北畠神社の敷地にありました。当時その周辺には家臣たちの屋敷や町人街など、約 3,000戸の家が立ち並び、約40の寺があったそうです。奥州平泉に匹敵する華やかさと言われてという記述もありました。そして北畠氏の本城が北畠邸から登れる霧山城で、ちょうど白米城から髭山を結ぶ直線の延長線上にありました。見晴らしよく伊勢湾や伊勢平野を眺望できる白米城から情報を伝達し、また北畠の本陣から前線に指示を伝達するためにここ髭山ののろしは大きな役割を果たしたことでしょう。 北畠一族は戦国時代終盤に織田信長に滅ぼされますが、その当時はまだ確かにオオカミは十分棲息していたのです。
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Re: 無題
藤田 進 - 2021/03/16(Tue) 15:35 No.491 | |
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Re: 無題
藤田 進 - 2021/03/16(Tue) 16:01 No.493 | |
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